川越城

川越城は、埼玉県川越市にあった城郭です。
長禄元年(1457)に扇谷上杉持朝の命により、太田道真・道灌親子が築城しました。当時、持朝は山内上杉氏と連合し、古河公方足利成氏と北武蔵の覇権をめぐって攻防を繰り返しており、そのための拠点を必要としていました。
両上杉氏と古河公方との間の争いの一方で、大永四年(1524)に江戸城を攻略した北条氏は、武蔵における支配権を確立するため、川越への侵出を目指します。そして天文六年(1537)、北条氏は、ついに川越城を攻め落とします。
天文十五年(1546)、扇谷上杉氏はそれまで対立していた山内上杉氏、古河公方と和解し、共に8万の大軍で川越城の奪還を図りました。城主北条綱成は寡兵ながらもよく防戦します。そこに8千の兵で援軍に駆け付けた北条氏康は、兵力の不利を補うために偽りの降伏をします。大軍で油断していた連合軍がこれを了承したところ、氏康は夜襲を仕掛けます。この奇襲が成功し、連合軍は大敗して撤退、北条氏は武蔵での勢力を固めます。これが有名な「河越夜戦」です。
さらに下って天正十八年(1590)、豊臣秀吉の関東攻略に際し、川越城は前田利家らに攻められて降伏しました。
同年八月、徳川家康が江戸に入府すると、江戸に近い川越には重臣酒井重忠を置きました。その後も有力な譜代大名が城主を務めます。
寛永十六年(1639)、川越城主となった「知恵伊豆」こと松平信綱は、川越城の拡張整備を行い近代城郭へと改修されました。
江戸時代には、川越は城下町としてだけでなく、新河岸川の水運や川越街道により江戸と深く繋がった物資の集積地としても大きく栄えました。
川越市立博物館にある川越城および城下町の復元模型です。
上記の通り、川越城は松平信綱により本丸・二ノ丸・三ノ丸・追手曲輪・新曲輪などからなる大規模な城郭となりました。
(現地案内板の南北を反対にしました)
しかし、現在城郭はほとんど破却され、本丸御殿など一部が残存するのみです。下の写真は、上の城郭図とほぼ範囲を一致させた航空写真です。
➢ ①大手門跡
➢ ②中ノ門堀跡
城内に唯一残る堀跡です。
➢ ③本丸御殿
川越城の貴重な遺構です。
弘化三年(1846)、焼失した二ノ丸御殿の代わりとして建設されました。新御殿は、建物の数16棟、建坪1025坪に及ぶ広大な建物でした。現在は、玄関・広間棟と家老詰所の2棟のみ残っています。なお、本丸御殿が現存しているのは、ここと高知城の2カ所だけです。
巨大な唐破風屋根が特徴的な玄関です。
弘化三年(1846)、焼失した二ノ丸御殿の代わりとして建設されました。新御殿は、建物の数16棟、建坪1025坪に及ぶ広大な建物でした。現在は、玄関・広間棟と家老詰所の2棟のみ残っています。なお、本丸御殿が現存しているのは、ここと高知城の2カ所だけです。
巨大な唐破風屋根が特徴的な玄関です。
廊下。御殿といえば二条城のイメージがあるのですが、それと比べればかなり質素です。
玄関入ってすぐの広さ36畳の大広間です。来客が城主のお出ましまで待機した部屋と考えられます。ご対面は南側にあった大書院で行われたようです。
お抱え絵師舩津蘭山による杉戸絵です。
もう1棟の「家老詰所」は、明治期に一旦商家に移築したものを再びこの地に再移築しました。
家老詰所は文字通り、本丸御殿に勤務していた家老が詰めていた建物です。ということで、家老同士の打ち合わせ光景が再現されています。品川台場の地図を前に江戸湾警備について議論しているとの設定です。
➢ ④三芳野神社
本丸屋敷を離れて、次に本丸にあった三芳野神社を訪ねます。
ここは童謡「とおりゃんせ」の発祥の地です。古くより同地にあった神社は、川越城築城により城域に入ることになりましたが、一般客の参拝は引き続き認められました。ただし、城への出入りに際しては、当然ですが参詣客は厳しい取り調べを受けました。そこであのような歌詞になったというわけです。
ここは童謡「とおりゃんせ」の発祥の地です。古くより同地にあった神社は、川越城築城により城域に入ることになりましたが、一般客の参拝は引き続き認められました。ただし、城への出入りに際しては、当然ですが参詣客は厳しい取り調べを受けました。そこであのような歌詞になったというわけです。
三芳野神社入口周辺にある土塁跡と思われる盛り上がりです。
➢ ⑤富士見櫓跡
本丸の一角にあるひときわ小高い丘に、富士見櫓が建てられていました。三層の建物で天守の役割を果たしていたものと考えられます。
丘には現在、御嶽神社が祀られています。
この日は唐人揃いが催されていました。江戸時代、川越氷川祭礼では朝鮮通信使に扮した仮想行列「唐人揃い」と呼ばれる練り物が人気だったのを、復活させました。元祖「韓流」といったところでしょうか。
この祭りの主旨でもあるのですが、歴史問題を巡り微妙な日韓関係ですが、長年にわたる平和な交流があったのもまた歴史であることは、認識しておきたいものです。
この祭りの主旨でもあるのですが、歴史問題を巡り微妙な日韓関係ですが、長年にわたる平和な交流があったのもまた歴史であることは、認識しておきたいものです。
(訪問日 2013年11月10日)
➣ アクセス情報
チェックマークは本丸御殿
● 住所 | 埼玉県川越市郭町 |
● 交通 | JR川越線、東武東上線・川越駅または西武新宿線本川越駅よりバス 関越道・川越ICより国道16号線経由5㎞ |
● 駐車場 | 本丸御殿前、市役所前(休日のみ)にあり |
● 周辺見所 | 川越散策マップ(小江戸観光協会HP) |
チェックマークは本丸御殿
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各合戦の動員人数について(5)川越城の合戦
皆さんこんばんは。今回は「各合戦の動員人数について」シリーズの5回目で「川越城の合戦」についてです。『歴史と旅』増刊「日本合戦総覧(昭和63年1/10臨時増刊、秋田書店)」の長谷圭剛氏の記事を参考にしています。今までの記事第1弾 江古田原沼袋合戦第2弾 権現山の戦
- 2018/03/24(19:02)
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