高城

高城は、小丸川とその支流の切原川に挟まれた細長く伸びた台地の上に築かれました。
伊東氏全盛期時における四十八城の一つですが、天正五年(1577)伊東氏滅亡とともに島津氏の支配下に入ります。その時に城主となった山田有信は、二度にわたる大合戦を経験します。
一度目は、天正六年(1578)、落城後大分に逃亡した伊東氏を助けて、大友氏が5万の大軍で日向に侵入。高城を攻撃しますが、有信はわずかな兵力でよく防ぎ拮抗状態に持ち込みます。そこに島津義久の援軍が到着します。島津軍は緒戦に負けたふりをして逃走、つられて高城川を越えて追撃してきた大友軍を、待ち構えた伏兵が包囲襲撃…釣り野伏ですね、島津軍は大勝します。さらに敗走する大友軍を追撃し、約20㎞北方の耳川のほとりで殲滅します。この一連の戦いが、有名な「耳川の戦い」です。これにより島津氏は日向の支配権を確立します。
二度目は、天正十五年(1587)の豊臣秀吉による九州征伐時で、豊臣秀長率いる8万の大軍に対し、有信は粘り強い抵抗をみせます。しかし、島津軍本体が根白坂の戦いで敗れて薩摩に撤退したため、有信は城を開け渡します。
城の縄張りは、現在城山公園となっている台地の東端が主郭であったと考えられています。主郭と西側の曲輪の間には、いくつもの竪堀が設けられ防御を高めています。

(地図は国土地理院の地理院地図を利用。※曲輪等の位置は推測であり正確ではありません)
城跡は現在公園となっており、駐車場も用意されています。下から登っても10分もあれば上まで行けます。
城の立地する丘陵の遠望。非常に細長いのが特徴です。

登城路には、お地蔵様が並んでいます。

曲輪の痕跡でしょうか。

こちらは当時の石垣でしょうか。

山の中腹は帯曲輪のようになっています。

主郭跡。建物は、復元された物見櫓と思いきや、メロディー時計台だそうです。

時計台より、二度の激戦が行われた小丸川(高城川)流域を眺めます。

主郭の西方は何本もの空堀が設けられています。(写真中、橋の掛っている箇所)

島津軍が大友軍を撃破した古戦場は、城跡の東方にあります。
それにしても、なぜ「耳川の戦い」と称されているのか?
合戦の経緯からすれば、どう考えても「高城川の戦い」とするほうがふさわしいですよね。

(訪問日 2013年10月22日)
➣ アクセス情報
● 住所 | 宮崎県児湯郡木城町高城 |
● 交通 | 東九州道・高鍋ICより県道19号線経由5㎞ |
● 駐車場 | 公園駐車場(無料:上記地図 'P' の地点) |
● 周辺見所 |
➣ Wikipediaリンク
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