当ブログが雑誌に載りました
少し前の話になりますが、当ブログが雑誌に載りました。
『クルマで行く山城さんぽ100』という雑誌で、「城好きブロガー・インスタグラマーが教えてくれたオススメ名城」のコーナーで、お仲間と共に紹介されています。
自分のブログが出版物となるのは不思議な感じがしますが、もちろんうれしくもあります。
一方で実際に雑誌を手にしてみると反省点もありまして…
以下が私がオススメした三つの城の写真です。
1. 諏訪原城
2. 高取城
3. 太閤ヶ平
うーん、地味ですね。
当然、あまり大きく取り上げらていません。
ほかの方の写真を拝見すると、見事な出来栄えに感心します。
それはさておき、この三城を選んだ理由については字数制限もあって十分に説明できなかったので、ここで詳細に述べたいと思います。
➢ 1. 諏訪原城
山城ではないのですが、立地の素晴らしさは戦国屈指と考えていますのでトップに挙げました。また歴史上も非常に重要な役割を果たしています。
まずは立地から紹介です。
東遠江を東西に抜けるには大きく2つのルートがあります。一つは内陸側の東海道を通るルート、もう一つは海沿いを通るルートです。
東海道を西へ進み、大井川を渡ると遠江国です。大井川も著名な難所ですが、さらには牧ノ原の巨大な台地が行く手を阻みます。東海道は台地の最も細くなった場所を通っており、諏訪原城は台地の上で東海道をおさえる場所に立地しています。しかも、東側は比高約130メートルの急崖でありながら、城自体は平坦な台地の上にあるので十分な城域を確保できるという理想的な要害です。
諏訪原城は、遠江攻略の拠点として天正元年(1573)に武田勝頼により築城されました。しかし、天正三年(1575)に長篠の合戦で織田・徳川連合軍が武田軍に大勝すると、家康は勢いに乗って諏訪原城を攻略しました(といっても2か月を要していますが)。家康はこの重要拠点を手に入れたことを喜び、中国の故事にちなんで牧野城と改名したといいます。勢力回復を目指す武田氏は、牧野城に何度も猛攻をかけますが、自らが築いた城を落すことはできませんでした。一方で、武田勢は遠江の真ん中に高天神城という堅城をおさえており、徳川勢はなかなか落とすことができない。お互いこの2つの城は非常に目障りだったでしょう。結果、両者は東遠江をめぐり数年にわたって膠着状態にありました。天正九年(1581)になり、ようやく家康が高天神城を落城させましたが、この間に織田信長は対武田は家康に任せ、西へ北へと勢力を大きく拡大させました。もし諏訪原城がなければ、依然としてあなどれない武田軍に攻め込まれていた可能性があり、そうなると信長は家康へ援軍を送らなければならなかったでしょう。その意味で、諏訪原城は信長の天下取りを間接的に支えていたかもしれません。
こちらの写真は深さ7~8メートルある巨大な三日月堀です。このように遺構としての見どころも多い名城です。
➢ 2. 高取城
2番目には、一般の方にも見ごたえのある石垣の素晴らしい山城を挙げました。石垣の見事な山城といえば竹田城や備中松山城が著名ですが、決して見劣りはしません。雑誌の中でも数多くの方がオススメとして挙げていました。
城は奈良の山中に立地します。
元々は土豪の城でしたが、豊臣秀吉の弟・秀長が大和を所領としている時代に巨大な城郭へ改修されました。豊臣家では吉野を押さえるこの地を極めて重視していたのでしょう。江戸時代になると、譜代の家臣・植村氏の居城となります。通常、このような不便な山城は江戸時代には廃棄されてしまうのですが、植村氏は幕府から特別な許可をもらい城を維持し続けました。
写真ではこの山城の迫力を伝えきれないのですが、簡単に見どころを紹介すると、
何といっても、尾根に沿って延々と続く石垣群です。
ここ矢場門前では、三方に石の壁が立ちはだかっています。
主郭部には、他の近世城郭と同様に立派な石垣がありますが、これが標高584メートルの山頂にあります。
もう一つ見逃せないが「猿石」。飛鳥時代に彫られた石像が、石材として運び込まれたとのことです。
➢ 3. 太閤ヶ平(たいこうがなる)
3番目は少しマニアックな山城を挙げてみました。ポイントは城跡までの所要徒歩時間です。
戦国時代の山城は、非常時の詰めの城という性格をもつため、人里から極端に離れた場所にはありません。今は林道が発達していることもあり、駐車場から30分も歩けば本丸までたどり着けるところがほとんどです。
ところがこの太閤ヶ平は、羽柴秀吉が鳥取城を攻める際に築いた陣城で、険峻な久松山の背後、直線距離で約1.5kmの山奥にあります。鳥取城を経由すると約2時間、山道を歩かなくてはいけません。しかし、その先には素晴らしい遺構が待っています。
鳥取城遠景。この久松山を登るだけで一苦労です。
久松山からは延々と山道を歩きます。
途中にある伝羽柴秀長陣跡の二重堀
ようやく本陣に到着。
高低差4メートル以上の土塁に囲まれた内寸58メートルの陣城が非常に状態よく残っています。陣城にしてはあまりに立派であることから、織田信長を迎える予定があったとも推測されています。
以上の三つを選ぶにあたっては相当に迷いました。泣く泣く選ばなかった城もたくさんあります。これ以外のオススメの城については、また別途紹介したいと思います。
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