前橋城
前橋城は、群馬県前橋市にあった城郭です。
前橋は古くは厩橋(まやばし)と称し、東山道の群馬の駅(うまや)が近く、それが地名の起こりといいます。
厩橋城が築かれたのは15世紀で、初代城主は箕輪城主・長野氏の一族・前橋長野左衛門尉方業とされています。以後長野氏ら厩橋衆が拠っていましたが、天文二十一年(1552) 北条氏の勢力が上州に及びました。さらには永禄三年(1560) 長尾景虎が関東奪回のため厩橋城を攻略しました。その後、上杉氏の家臣・北条高広が厩橋城を守っていましたが、戦略的な重要性から上杉・北条・武田氏の間で攻防が繰り返されました。
天正十年(1582) 武田氏が滅亡すると、織田信長の部将・滝川一益が厩橋城に入り関東管領を称しました。しかし、本能寺の変により織田信長が死亡すると、一益は本国へ撤退し、城は北条氏のものとなりました。
天正十八年(1590) 豊臣秀吉による小田原攻めの際、厩橋城は浅野長政に攻められて落城しました。
その後、関東に移封となった徳川家康は、重臣の平岩親吉、次いで酒井重忠を城主に任じました。酒井氏は九代にわたり城主を務め、この時代に「厩橋」は「前橋」と改められました。寛延二年(1749) 酒井氏が姫路に転封になると、代わって松平氏が入封しました。しかし利根川による城郭の浸食に悩まされ、明和四年(1767) 川越へ移り前橋城は廃城となりました。
城主を失い城下町は衰退したため領民は再三にわたり藩主の帰城を願い出ました。そして、文久三年(1863) 幕府の許可を得て城を再普請し、慶応三年(1867) 帰城が実現しました。この背景には、開国後の生糸貿易により莫大な富を蓄えた商人の後押しがありました。しかし築城後半年で大政奉還となり前橋城は廃城となりました。
明治時代も本丸御殿は残され県庁舎として使われていましたが、昭和三年(1928) 老朽化により取り壊しとなりました。
酒井氏治世時代の前橋城の城域は十五万坪に及びました。利根川に面する西端に高浜郭・本丸・二ノ丸・廐郭を並べ、南東に伸びる土塁と堀を巡らせていました。また本丸には三層の天守が建てられていました。
幕末に再建された前橋城は、突角部に砲台を構えるなどヨーロッパ式の稜堡形式を一部採用していました。また本丸は、旧城の三ノ丸のあった場所に置かれました。
(現地案内板より)
現在残る遺構は数少ないですが、県庁裏および前橋公園に土塁が、県庁東側に車橋門跡があります。
今回はJR前橋駅から歩きましたが、城跡のある群馬県庁までは約30分と少し時間がかかります。車で訪問の場合は、県庁もしくは前橋公園の駐車場が利用可能です。
➢ ①車橋門跡
現存する数少ない遺構の一つです。車橋門は、城の外曲輪から城内に至る位置にあった重要な城門でした。現在の門は、区画整理により間隔が狭められました。
➢ ②虎姫観音堂
酒井氏の時代、赤城山麓にお虎という美しい娘がいました。お虎は殿様に見初められ城に召されました。しかし、お虎に嫉妬した女中たちは、殿様の食事に針を入れお虎に運ばせました。これに怒った殿様は、お虎を利根川に沈めました。その後、毎年のように利根川が氾濫を起こしたため、人々はお虎の祟りによるものと考え、虎姫観音を祀ったといいます。
旧城の天守は、虎姫観音のあたりに建てられていたと推定されています。
(現地案内板より)
本丸跡にそびえたつ群馬県庁
➢ ③土塁(県庁裏)
県庁の裏には土塁が残ります。
➢ 利根川
城跡のすぐ西側を流れています。
➢ ④前橋公園
日露戦争を記念して、城跡北側に造られました。
公園内に残る土塁
公園内部
➢ ⑤前橋東照宮
松平氏により創建されました。現在の社殿は、松平氏が川越に一時移転した際に当地で造営され、明治四年(1871)にこの場所へ移築されました。
➢ ⑥臨江閣
明治十七年(1884) 群馬県令・楫取素彦らにより迎賓館として建てられました。本日は、ここで将棋の竜王戦が開催されるため、中には入れませんでした。
➢ 風呂川
広瀬川より城内の生活用水として引き入れた川、臨江閣の北を流れています。
(訪問日 2017年11月5日)
➣ アクセス情報
チェックマークは県庁裏土塁跡
● 住所 | 群馬県前橋市大手町 |
● 交通 | (群馬県庁まで) JR両毛線・前橋駅より徒歩25分またはバス 関越道・前橋ICより国道17号線経由3.5㎞ |
● 駐車場 | 前橋公園または群馬県庁駐車場(無料:上記地図 'P' の地点) |
チェックマークは県庁裏土塁跡
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